[ 日々のこと ]
富山に来て2度め年越しです。
昨年は、研究室もなかったので、行くとこもなく、30日に富山を出て、京都の実家に帰り、2日にもどってきました。31日から元旦にかけて、大雪が降ったので、帰りは本当に大変でした。
大学入学と共に、京都を離れました。経済的には大学院卒業までは両親に依存していたので、年末年始はきちんと帰っていました。学部のときは、24日に最後の授業が終わったら即帰省して、講義が始まる7日きりぎりまで実家にいました。大学院では薬剤部の研究室にいたこともあり、今と同じ29日から3日が正式な休みで、たいていは、実験の都合等で、30日から2日がオーソドックスな帰省パターンになりました。就職してからも30日から1日が平均的なところです。
今年は、6日から中国に行くので、仕事をきっちり片付けておきたいこと・・・さらに、夏の怒涛の出張から事前実習、OSCEで睡眠不足と忙しさがマックスだったので、体を休めておきたいこと、さらに、天気予報で大雪が報じられていることもあって富山で年越しです。パートナーと2人で、平素の休みと同じようにだらだらしつつ仕事しています。
今日31日は、食事するところやお店も通常営業と思っていたら、7時で終了だったり、休業だったりで、あてがはずれています。
改めて思うのですが、年に1回くらいは両親に顔を見せなければならないな・・と、感じています。両親も、もう70歳。いつまでも元気にいてほしいと思うものの、こればかりです。
反抗期もあったけど、人生の節目で両親は大きな支えでした。
中学からエレベーター式で大学までいける私立に行かせてもらっていました。当時は、自分が試験に合格したのだから当然・・・と、思っていましたが、当時の年間授業料が今の私の年収額面の20%で、きっと両親は大変だったと思えるようになったのは最近です。
それでも大学まで無試験でいけるから、と、いうのがあっただろうに、他大学受験をしたい、と、言い出した私に対して
”あの時、こうさせてくれればよかったのに・・と、思わないように自分で決めたようにしなさい”
と、いってくれました。きっと経済的には大変だったでしょう。
医学部受験がうまくいかなかったとき、
”医者になる、と、いう夢を捨てられないなら、浪人はさせてあげられるけど、下に兄弟が2人いるから、うちの経済状況から私立医学部には行かせられないから、よく考えなさい”
と、いってくれました。結局併願していた薬科大学に行きましたが、自分で考えた末の結論だったので、ふっきれたのだと思います。
女子が修士に行くことが珍しかった当時、
”自分たちの親は決して裕福でなかったけど、学校だけは行きなさいと無理して大学に行かせたくれたことが、人生を大きく変えたから、迷っているなら、とにかく行っておきない”
と、いってくれました。
博士課程への進学を迷っているときに、
”卒業して、食べていけなければ、京都帰ってきて、薬剤師すればいいのだから、あの時博士課程に進学しておくべきだった、と、思わないようにしなさい”
と、いってくれました。
博士課程修了学年でアカデミックポジションを希望するも職がなく、企業への誘いがあった時に、
”ここまでやってきて、1年や2年の余分は同じだから、希望していない職につくのはやめなさい”
と、いってくれました。
運よく、博士課程修了後、助手として採用してもらったものの、留学するチャンスがなく、不満をいっていた時に、
”留学したいなら、辞めて行けばいい。何とかなるだろう”
と、いってくれました。
今もそうだけど、つい、実験を無理なペースでして、体調を崩して、なかなか回復しなかったときに、
”仕事やめて、家で、しばらく寝たり起きたりしたら治るから、それもいいんじゃない?体が丈夫なら、何とかなるものよ”
と、いってくれました。
ある実家から通勤可能な大学から、実務だけで研究禁止の教授ポジションの話をいただいた時に
”今まで、好きなように、思うようにやってきたのだから、いまさら親を看ようなどと、思って妥協しないで、自分の能力が十分発揮できるところに行きなさい”
と、いってくれました。
いろんなことが、不本意な方向に動き、いっそう研究も辞めようか、と思っていたときに
”今までがうまくいきすぎたのだから、今をこらえて肩の力を抜いてやればいい。今の世の中、自分で食べていけてるんだから、それ以上、望まなくていいよ”
と、いわれ、退職を踏みとどまりました。
今の大学に教授として採用をいただくことが決まったときに、
”声をかけてくれた先生、選んでくれた先生に、採ってよかったと思ってもらえるよう頑張りなさい。今まで支えてくれた人の御恩を忘れないように”
と、いわれました。私の恩師のところに、お礼に行ってくれました。
今のところ2人で京都の実家で元気に過ごしています。
実家に至近に、妹一家、弟一家が住んでくれているので、私も安心してられます。
年末に親を想います。
昨年は、研究室もなかったので、行くとこもなく、30日に富山を出て、京都の実家に帰り、2日にもどってきました。31日から元旦にかけて、大雪が降ったので、帰りは本当に大変でした。
大学入学と共に、京都を離れました。経済的には大学院卒業までは両親に依存していたので、年末年始はきちんと帰っていました。学部のときは、24日に最後の授業が終わったら即帰省して、講義が始まる7日きりぎりまで実家にいました。大学院では薬剤部の研究室にいたこともあり、今と同じ29日から3日が正式な休みで、たいていは、実験の都合等で、30日から2日がオーソドックスな帰省パターンになりました。就職してからも30日から1日が平均的なところです。
今年は、6日から中国に行くので、仕事をきっちり片付けておきたいこと・・・さらに、夏の怒涛の出張から事前実習、OSCEで睡眠不足と忙しさがマックスだったので、体を休めておきたいこと、さらに、天気予報で大雪が報じられていることもあって富山で年越しです。パートナーと2人で、平素の休みと同じようにだらだらしつつ仕事しています。
今日31日は、食事するところやお店も通常営業と思っていたら、7時で終了だったり、休業だったりで、あてがはずれています。
改めて思うのですが、年に1回くらいは両親に顔を見せなければならないな・・と、感じています。両親も、もう70歳。いつまでも元気にいてほしいと思うものの、こればかりです。
反抗期もあったけど、人生の節目で両親は大きな支えでした。
中学からエレベーター式で大学までいける私立に行かせてもらっていました。当時は、自分が試験に合格したのだから当然・・・と、思っていましたが、当時の年間授業料が今の私の年収額面の20%で、きっと両親は大変だったと思えるようになったのは最近です。
それでも大学まで無試験でいけるから、と、いうのがあっただろうに、他大学受験をしたい、と、言い出した私に対して
”あの時、こうさせてくれればよかったのに・・と、思わないように自分で決めたようにしなさい”
と、いってくれました。きっと経済的には大変だったでしょう。
医学部受験がうまくいかなかったとき、
”医者になる、と、いう夢を捨てられないなら、浪人はさせてあげられるけど、下に兄弟が2人いるから、うちの経済状況から私立医学部には行かせられないから、よく考えなさい”
と、いってくれました。結局併願していた薬科大学に行きましたが、自分で考えた末の結論だったので、ふっきれたのだと思います。
女子が修士に行くことが珍しかった当時、
”自分たちの親は決して裕福でなかったけど、学校だけは行きなさいと無理して大学に行かせたくれたことが、人生を大きく変えたから、迷っているなら、とにかく行っておきない”
と、いってくれました。
博士課程への進学を迷っているときに、
”卒業して、食べていけなければ、京都帰ってきて、薬剤師すればいいのだから、あの時博士課程に進学しておくべきだった、と、思わないようにしなさい”
と、いってくれました。
博士課程修了学年でアカデミックポジションを希望するも職がなく、企業への誘いがあった時に、
”ここまでやってきて、1年や2年の余分は同じだから、希望していない職につくのはやめなさい”
と、いってくれました。
運よく、博士課程修了後、助手として採用してもらったものの、留学するチャンスがなく、不満をいっていた時に、
”留学したいなら、辞めて行けばいい。何とかなるだろう”
と、いってくれました。
今もそうだけど、つい、実験を無理なペースでして、体調を崩して、なかなか回復しなかったときに、
”仕事やめて、家で、しばらく寝たり起きたりしたら治るから、それもいいんじゃない?体が丈夫なら、何とかなるものよ”
と、いってくれました。
ある実家から通勤可能な大学から、実務だけで研究禁止の教授ポジションの話をいただいた時に
”今まで、好きなように、思うようにやってきたのだから、いまさら親を看ようなどと、思って妥協しないで、自分の能力が十分発揮できるところに行きなさい”
と、いってくれました。
いろんなことが、不本意な方向に動き、いっそう研究も辞めようか、と思っていたときに
”今までがうまくいきすぎたのだから、今をこらえて肩の力を抜いてやればいい。今の世の中、自分で食べていけてるんだから、それ以上、望まなくていいよ”
と、いわれ、退職を踏みとどまりました。
今の大学に教授として採用をいただくことが決まったときに、
”声をかけてくれた先生、選んでくれた先生に、採ってよかったと思ってもらえるよう頑張りなさい。今まで支えてくれた人の御恩を忘れないように”
と、いわれました。私の恩師のところに、お礼に行ってくれました。
今のところ2人で京都の実家で元気に過ごしています。
実家に至近に、妹一家、弟一家が住んでくれているので、私も安心してられます。
年末に親を想います。